2007年9月8日土曜日

どうしようと自分の勝手? (07.09.08)

  04年大晦日に母が心不全で亡くなりました。天然酵母パン作りの元祖としてエネルギッシュに活動していた母でしたが、92年夏に風邪で体調を崩し、25年間続けていた教室を休講して以来、心のエネルギーが枯渇してしまったかのように、精力的だった活動をピタリとやめてしまいました。以降、外出を嫌い、家の中で静かに過ごすライフスタイルへと一変しました。

 当然の結果として、部屋の中を移動するだけという極端に少なくなった活動量に身体が適応し、気力とともに体力が年々衰えていきました。実家に帰るたびに「体操したり、散歩したりして身体をもっと動かさなければ、寝たきりになってしまうよ」とアドバイスする私に「お前の言うとおりだね」と同意はしても、行動に結びつかない母を見ながら、心に働きかけて行動を変化させていくことがいかに難しいことかを痛感しました。結果的には、寝たきりになることもなく、不活発ながらも日常生活を送れる身体を維持したまま、それほど苦しむことなく終焉を迎えられたことは、不幸中の幸いだったかも知れません。

 「生活習慣病」からはじまり、「生活不活発病」や「生活機能病」という言葉も生まれています。いずれの表現も、生活における身体活動のあり方が様々な病気や機能障害を作り出していることを警告し、自覚を持たせる意図を持った言葉です。しかし、自己責任病ともいえるこれらの疾病は増える一方で、「笛吹けど踊らず」の状況にあるというのが実情です。

 因果応報といいますが、当然、病気や機能障害には原因があります。自分自身の生活のあり方が、病気や障害をつくっているという理屈は分かっても、病気や障害発生という器質変化にいたる前段階である機能変化の段階では自覚症状が少ないということもあって、どうしても他人事のように感じてしまうのは無理からぬことのようにも思えます。「人は健康のために生きているのではない、だから好きなことをして生きていきたい」という人も少なくありません。もっともなセリフでしょう。しかし、健康を損ねてしまえば、当然、好きなこともできないことになります。生涯にわたって、不自由なく自分の頭とカラダを使い、好きなところへ行って、好きなことを楽しむためには、年齢に見合った心身の能力が必要です。そのためには生活の中で、「ほんの少しの注意と行動」を心がけ、病気や障害を患わない身体作りにも目を向けることが大切です。少しの実行でも、積み重なれば大きな力になるはずです。長期間、床に伏せるような生活は、本人にとっても不幸であるし、家族や周囲の人たちにも不幸を強いることになります。このように考えると、「自分のカラダだから、どうしようと自分の勝手である」というのは、まさに自分勝手な考え方と言えるのかも知れません。

  (「ミドルエイジからの健康塾」前書きから抜粋)