養生訓で知られる貝原益軒が生きていたのは、江戸時代、高度成長が安定期に入った元禄時代です。衣食住も豊かになり日本の原型が出来上がった時代であり、文芸、学問、音楽など様々な文化が発達した時代として知られています。健康や寿命といったことが、庶民レベルで初めて意識された時代でもあり、健康法である養生書といわれる出版物が大量に出回った時代でもあったようです。
昨今は、アンチエイジング(抗加齢)という言葉が盛んに使われ、美容、健康食品、スポーツ・フィットネスなど様々な分野で注目を集め、関連商品も広がりを見せています。現代社会では、老いることを嫌い、いつまでも若さを維持したいと誰もが願っています。しかし江戸文化には全く違った思想があったようです。「養生訓の世界(立川昭二著:日本放送出版協会)」に次のような一節があります。
「江戸という社会は、ある意味で言うと、老いに価値を置いた社会であったといえます。(中略)それに対し、現代の日本は若さに価値をおいた社会といえます。エネルギーやスピード、強さや速さに価値をおいた社会であり、それは力や量の論理であり、若さの文化と言いかえることもできます。
江戸時代にはエネルギーやスピードといった価値や力や量といった論理はありません。暮らしは自然のリズムにそって流れていたし、人も物もゆっくりと動いていました。人がその一生で蓄えた知恵や技能がいつまでも役に立ちました。そうした社会には年寄りの役割が厳然としてあり、また社会そのものが年寄りのゆっくりとした動きをしていたのです。若さがものを言うスポーツや芸能などなかったし、今いうところの情報も若者よりも老人の方が豊かだったのです。(中略)江戸に生きていた人にとっては、今日とは違って人生の前半より人生の後半に幸福があったのです。江戸時代には、たとえば現代人が最高の願望としている「若返り」という考えはなかったのです。こうした老いが尊く見られ、老いの楽しみを願っていた社会というのは、若さや強さに価値をおいた社会よりも、人にも自然にもやさしい社会であり文化であったといえます。」
時代や環境が大きく異なる江戸と現代を単純に比較することはできないとしても、現代社会へのアンチテーゼとして多くの示唆を含んでいるではないでしょうか。便利なモノはなかった代わりに、江戸しぐさとして表現される心や粋な行為はあたりまえのこととして存在していたのでしょう。