2020年12月31日木曜日

命の時間

小学生の頃マンガに夢中になった。中学入学が近づいたとき、父に「ここに座れ」と呼ばれ、中学生で漫画を読むのはみっともないので、小学校卒業と同時にやめるように説得された。 
父は温厚な性格で声を荒げるようなことはなく、静かに説得力を持って喋るので、全く逆らうことはできず(というか逆らう気も起こらず)、本棚に埋め尽くされた漫画をすべて廃棄した。 振り返るとあれ程 夢中になったものをよくやめられたと不思議でならない。 

小学2年生の時、手塚治虫のゼロマンを読み、夢中になっていった。ただ、今考えると、小学生で漫画をやめるような友人は誰ひとりいなかった。 大学生になっても社会人になっても漫画を読み続ける時代になることを、さらにはマンガがMANGAとなり世界に誇る日本文化として一大ビジネスにまで発展することを父も予測はできなかっただろう。 

ところで手塚治虫が医師免許を持っていることを知る人は多いだろう。医師への道を捨て漫画家を志した人である。その手塚の作品に「永遠の命」をテーマに時間や空間を超えて展開する壮大なドラマ「火の鳥」という秀作がある。 見事なストーリー展開とワクワクが止まらない面白さには衝撃を受けた。また手塚作品には、時間を止めることができる主人公の物語「不思議な少年」もユニークな作品として記憶に残っている。 

火の鳥は「永遠の時間」、不思議な少年は「一瞬の時間」どちらも時間がキーワードである。 人は誰も偶然に生まれて、必然として死んでいく。この限りある時間を生きていくのが人間。長短はあっても限られた時間を生きるのは皆同じである。 
人生シーンの中には、時間が早く過ぎて欲しいと願うこともあれば、この幸福な時間がずっと続いて欲しいと思うこともあるだろう。ファンタジーではない現実の世界では時間をコントロールすることなど誰にもできない。

こうしている時間も確実に一秒一秒時が刻まれ、カウントダウンが続いている。そう考えると、時間との付き合い方はこの上なく重要であることに気づく。 

105歳で亡くなった医師 日野原重明さんは、小学校で「命の授業」を行っていた。子どもの時はすべての時間を自分のためだけに使っている。 「大人になるということは大切な時間を人のために使うことなのですよ」。そして「命とは時間のことなのです」と訴えた。

限られた命とは、限られた時間のことである.「時間を大切に、すべての命を大切にしましょう」という荘厳なメッセージである。 
 今年もあっという間に師走。時の経過スピードは毎年加速度的に速くなっていることを自覚せずにはいられない。今年、あるいは今年を含めた今後数年は、失われた年、或いは失われた時代と呼ばれるのかも知れない。 

年末は私の誕生日、年齢を指折り数えていた時代からカウントダウンで年(歳)を数えるようになった。地球にも年齢がある。人の命と比べるとその長さなどは瞬間といえる。

けれど、私たちは、かけがいのないその瞬間を生きている。 「命とは時間のことである」というこのメッセージは重い。暇つぶし=時間つぶし=命つぶし、と考えると 命である時間の概念を見直さざるを得ない。 

家から5分のところに1375年の歴史を持つ神社がある。例年末は24時間開放であるが、今年は早仕舞いした。
そして多くの人は、いつもとは違う不安と希望を抱えながら新年を迎えることになるのだろう。  

あなたは残された命(時間)をどう使いますか?

(2015.12「時間よとまれ」改題&リライト。2020.12メルマガSwim Partner投稿)

2020年12月12日土曜日

カラダの言い分

健康情報の氾濫は今に始まったことではない。書籍、新聞、TV、ラジオ、雑誌、インターネット、口コミ等々から一喜一憂する人は多いのだろう。また、健康づくりを目的とした運動に関する情報も世に溢れている。

ところで名医と称する医師が登場するTV番組などで、運動指導を披露するシーンをみかけることがある。しかし、これにはなからず違和感を覚える。

確かに医師で運動指導に優れている技術を持つ人がいるかもしれないが、極めて稀だろう。そのような医師がTVに出て指導する姿はみたことがない。運動実施時のリスクをアドバイスするならわかるが、医師が治療を担当するように、健康運動指導も運動指導者が行うのが自然だろう。

氾濫の中には役に立つ情報があるだろうが、運動理論に支配され過ぎると、カラダが発する声が聴こえづらくなる気がする。
例えば怪我をした時には患部を冷やし、72時間後は温めるという理屈がある。根拠に基づくものだろうがカラダはそれを望んでいないこともあるのだ

そんな時はカラダが発する声に従った方がいい。医者との付き合いをやめ、長年 カラダとの対話という方法で様々な持病と向き合ってきたことを、五木寛之が、その著書の中で告白してしている。理屈はさておき、その時冷やしたいのか 温めたいかをカラダに聴き、それに従う。その結果、病気知らずの体を維持しているという。

カラダの発する声に従う=心地よさを求めること。 と言い変えることができるだろう。痛いところに手を当てることで痛みは和らぐし、伸びをすることで心身がほぐれる。それぞれ、痛みから逃げたり、リラックスする方法だが、基本は、どちらもカラダが求めるに声に従がった自然な動作である。

ウォーキングは大きなストライドで速く歩くことが推奨されているが、私の場合、その歩き方では、心地よいと感じることができない。なので、快を感じる範囲で歩幅もスピードも調整するようにしている。

基本は風や気候を気持ちよく感じたり、景色を楽しめる範囲の中で行うようにしている。なぜなら、それを超えると不快だからだ。
しかし、十人十色。大股で速く歩く方法が快ならばそうすればいいし、走るのが快ならばそうすればいい。

体の言い分に耳を傾けて、それに従う。その言い分は、季節や体調でも違う。その時その時、現在只今の言い分に従うことが大切。
それが何より心地いいのだから。

★wellness for life いつまでも動けるカラダ
"心地よいは 健康づくりに有利"

2020年12月1日火曜日

下駄とタビと府中(ゲタ・ウォーク)

 1年前に府中に越してきた。

今春、雪駄を履いていたら「貴方もやっと府中の人になったね!」と声をかけられたことがあった。
今年の夏は下駄で過ごした。
秋になっても下駄がやめられなかった。11月に とある方から黒の雪駄とカッコイイ足袋を頂いた。足袋を履くのは二度目、一度目は多くの方が経験する式典。これは式の間だけの和装であるが、足袋で生活するのは初めての経験だ。

下駄に足袋。これが標準となってしまった。足袋がこれほど温かいとは知らなかった。空気の層をつくるからだろう。下駄生活も半年。様々な気づきがあった。

私の左足は痛みはあまりないのだが、外反拇趾気味で横アーチが潰れているためアーチの真ん中が靴底で擦れ 横1cm 縦1.5cmくらいの分厚い皮膚となり、かなり硬くなっていた。

 その硬くなった足裏の部分には違和感があり気になっていた。ところがある日その硬質部分を触ったら、半分ほどの薄さに変わっていた。柔らかな靴底ではアーチが潰れ、下駄履きでは、ささやかだがアーチが復活したのだ。これには驚いた。

 さらに下駄歩きだと一歩づつ 程よい着地衝撃があり脳天まで響くのだ。思い出したのが、骨粗鬆症対策として話題になった「かかと落とし」である。両足で立ち、かかとを高く上げて(ヒールレイズ)から一気にかかとを落下させ地面(床)と衝突させ骨を刺激するというもの。
その効果検証は知らないが TVで医師が解説しているシーンを観たことがある。下駄ウォークならそれすら必要ないだろう。
 師走に突入した。足袋と下駄で冬を越そうと思う。