2019年9月30日月曜日

原理の狭間で 3


コーチ時代からスイマガとトレーニングジャーナルを併読した。トレーニング系の雑誌は学生時代から毎月、細部に至るまで目を通した。その習慣も数十年続き、自然と知識は膨れていった。トレーニングを実践しながら専門書も貪るように読んだ。

中学2年サンダルばきで
自己流の車輪
思えば専門書らしきものを読み始めたのは小学生の時。好きだった水泳と体操の本は何度も何度も繰り返し読んだ。体操競技は特に字が難しく苦労したが、お陰で難しい字が読めるようになった。小学6年の時、本を参考にしながら蹴上がり(鉄棒)を覚え、バッタに難があったが、本で4泳法を覚えた。スイミングクラブなどは、存在しなかった時代である。水泳競技も理論をマスターしたつもりになり、プールで実践を重ねた。勿論コーチはいない独学。それでも何とかカッコつけて泳げるようになった。中学は指導者がいない体操部に入ったが、水泳大会では水泳部とは互角に泳いだ。

大学2年でトレーニングを始め、3年の時、日本で唯一のトレーニング指導資格を取得。1週間研修が義務付けられていたが、実技が充実していた。座学も東京五輪でトレーニングドクターを務めた小野三嗣先生をはじめ一流の講師陣が揃っていた。小野先生の講義は面白かった。標準体重というものがあるが、実際に、自分の体重を様々に変えてみて試したというのだ。そして、最も健康的であったのは小太りだったと結論づけた。自らを被験者にして知り得た事実を根拠に、医師であり、医学研究者の立場から、標準体重の考え方に対して、正面から異論を唱えた。新鮮な話だった。そして、これが研究者魂なのだろうと感銘を受けた。
実技は第一人者である窪田登 早大教授が中心で進められた。ローマ五輪 ウェイトリフティングライトヘビー級で7位入賞したこの人は、人間離れしていた。既に先生の多くの著書や雑誌を読んで関連知識を吸収していた。時々講習で見せてくれたマッスルコントロールは凄かった。三角筋(肩の筋肉)をまるで生き物のように自由に動かすのだ。これには驚いた。古い筋トレ愛好者間では有名だった、片手スナッチで、(60kgのバーベルをヒョイと頭上に挙げる)得意技も見せてくれた。

余談になるが、早稲田大学は後に、人間科学部を新設することになる。この時に、

東大から招いたのが、中村好男先生である。窪田先生の眼力には敬服するが、さらに、中村先生が助手を務めた研究室にいらしたのが、水泳界では誰もが知る、宮下充正 東大名誉教授と同期の永田晟教授であった。永田先生とは、1993年、流水マシンのプログラム作りを二人で担当したご縁で、アクアスポーツという本を共著出版することになる。永田先生から突然電話が入り、原稿依頼を受けたのだが、その締切日が早かった。書く時間を捻出するのが困難なのだ。当時、会社で進めていた台湾の1号店への出張(約2ヶ月間)が目前に控えていたからだ。逡巡したが、そこで書くしかない。そう判断し、執筆了解を永田先生に伝えた。あれは、出張中に台北で書いた本なのである。窪田先生の声掛けがなければ、中村先生との御縁もなかったのだ。そう思うと縁の不思議に、何か見えない大きな力が働いているような気がしてならない。

水泳コーチ時代もトレーニングは続けた。休みは週一回。5:30から朝練が始まり、遅い時は深夜になることも多く。外食して家に帰るのは午前1:00。起床は午前5:00という生活が2年続いた。睡眠時間は4時間。朝練がないのは9月だけ。年11ヶ月がこの生活だった。
慢性睡眠不足で、大事故になりそうなことがあった。帰宅すると先ず風呂を沸かすのだが、目を閉じれば即入眠となる当時のこと。(私たちはそれを気絶と呼んでいた)
その日はガスを付けたまま寝てしまった。気づいたのは朝。新聞配達人や近所の人が激しくドアを叩く音で目が覚めた。

しまった!

すぐに飛び起き浴室へ向かうが、隣の部屋はサウナ状態。浴室のドアを開けたが熱くて入れなかった。それでも強引に中へ。風呂蓋は沸騰した湯でグニャグニャに変形。風呂釜はガタガタと音を立て踊っていた。タップリだったお湯は、かろうじて循環口に触れる程度。慌てて火を消し事なきを得た。風呂の換気扇からは、大量の煙のような蒸気が出ていたそうだ。危うく死ぬところだった。おまけに、こういうことが2回もあった。

習慣とは恐ろしい。こんな過酷な生活でも、週一で筋トレを続けたのだから。
1回の休日は昼まで爆睡。食事休憩をタップリとって、夕方からジムへ。こうした生活を2年続けた。ここまでの経験を経て学んだことは、週一でもOKということ


5番目の任務地は赤羽。フィットネス1号店。スイミングも併設されており、それも合わせた責任者となった。フィットネスに関しては、新たに学ぶ必要がないくらい、知識は既に頭の中に準備されていた。いや、そう思っていた。


キーワード:継続性、運動頻度
 
つづく


*「アクアスポーツ」1993 西村書店 は当時のペンネーム 矢野哲也で執筆


原理の狭間で 2

少し時間を戻そう。
初めてスイミングスクール所長として勤務したのは仙台。オープンしたばかりのスクールだった。
所長業、東北での生活、いずれも初めてで、毎日が新鮮だった。子ども達が喋るこの地域の方言「だっちゃ」は可愛かった。何でも言葉の最後に「ちゃ」をつける。「そうだっちゃー」とか。

五輪でも活躍した千葉すずさんが入会してきたのは、4歳の時だったと思う。彼女にとっては運命の水泳との出会いである。センスが良く毎月進級するので、4ヶ月で幼児の最上級クラスになった。そんな生徒はいないので、当然、マンツーマン指導になった。
この時コーチとして担当した。4歳の女の子が1時間も、カラダのゴツい、男のコーチと一対一で過ごすというのは、大変だったかも知れない。レッスンが終わると、母上が受付にきて、私を呼び「すず 大丈夫なんでしょうか?』と心配顔で、聞いてきた。
「全く心配ありません」とはっきり答えると、安心されたのか、穏やかな顔になり。しばらく、そこで歓談した。ショートカットで背が高く、いかにもスポーティな方だった。これだけ、時が経っているのに詳細な内容まで憶えている。一昨日の食事内容は忘れるのに。不思議だ!

仙台時代 上から2列目の右端が私
週一トレーニングが始まったのは、この仙台からだ。夕方からジムへ行き、夜は武道館で汗を流すという生活だった。酒もタバコもやらないし、お前は何が楽しくて生きてるんだ?などとよく言われたが、何故そう言われるのか不思議でならなかった。楽しくて仕方ないのだから。

話しを戻そう。
ある時あることで、生徒の保護者の男性からクレームがあった。受付から呼ばれ、顔を出し話しを伺っていたら、「お前じゃダメだ!責任者をを呼べ」ときた。一瞬、返す言葉を考えた。これしかなかった「私が責任者です」と。戸惑ったようなその顔を覚えているが、その先の記憶がない。当時は5歳くらい若く見られることが多く。こんな若造が責任者なのかと驚かれたのだろう。
27歳の時である。

選手クラスをつくったのも、初めてだった。すずさんが、その選手クラスに入ったのは、私が2年の勤務を終え、相模原へ転勤した後のことである。強豪ひしめく神奈川で、女子自由形全種目で県記録を持つなど、強豪チームとして知られた相模原での話は前回書いた通りである。

つづく

2019年9月29日日曜日

原理の狭間で 1

つい最近、シャツ一枚の私の写真を見た姉から「痩せたね」と一言。その時の体重は67kgほどで、その自覚はなかったが、改めて写真を凝視した。胴体部分も腕も細く貧弱で痩せて見えることに気づいた。
いや、もともと気づいてはいた。原因は廃用性萎縮。筋肉が落ちたからである。もちろん、その自覚はある。
筋トレを止めたのだから。当然、筋肉は落ちる。

19歳のとき、取り組んでいたスポーツと並行して筋トレを始めた。激務の時代は週一トレーニングを余儀なくされたが、それでもベンチプレスでは100kgを楽に上げていた。
因みにベンチのベストは120kg。スクワットのベストはわからないが、いつも150kgが最終セットだった。

その時の体重は65kgで少し細かった。体重の2倍のベンチプレスを目指したが、そこ迄の素質がないことに気づいた。。チンニングバー(鉄棒)にぶらさがれば、懸垂の延長のように、そのまま腰まで体を上げる動作を、楽に10回はできた。もちろん反動は使わない。

しかし、後に、ミスター日本を獲得し、アジアでも優勝したAさん(同じジムで自宅も近かった)を、見ていて、まるで自分とは素質が違うことを、痛いほど知らされた。。
当時Aさんは、パワーリフターで、すごいパフォーマンスを見せていた。スクワットラックでは涼しい顔で100kgのショルダープレス。ベンチは170kgくらいを上げていた。スクワットは200kg超。しかも全て、フルレンジで完璧、キレイなストリクトスタイルである。懸垂は片腕で軽々行い。75kg級の体重でも100m 12秒。ジムの硬い床でバク宙。柔道は有段者で某組織の大会で優勝。卓球も上手い。その上努力家で知的、人間性も素晴らしかった。
少し線が細かった20代。
隠れているが、左にポーズを取る
Aさんがいる 
二人でポーズをとっている写真が手元に数枚あるが、デフィニションもいい。ここで紹介したいと思うが、残念ながら無断掲載はできない。
今では筋トレ愛好者は格段に増え、凄いレーニーも多くなっていると思うが、当時はAさんのような人は極めて稀であった。

話を戻そう。
この業界の仕事は水泳コーチから始まった。そして、会社のフィットネス1号店出店が決まり、出店計画から現場の責任者までを担当することになり、フィットネスが自分の仕事の領域に加わったのである。この時30歳。

    これで自分の時代が来た!
    と心の中で快哉を叫んだ。

誤解ないように説明するが、水泳は大好きである。競泳指導にも、のめり込んでいた。2年ごとの転勤で実績を出すのは容易ではなかったが、それでもJOで、10歳男子の教え子は、日本で初めて50m自由形で30秒を切ったし、JOに出た女子スイマー達も強かった。ただ、JOの10歳以下では、単独種目は50mのみで距離が短く(200m個人メドレーはあったが)、彼女たちの力を発揮するにはレース距離が短すぎた。なので、東スイ招待ではみんな面白いくらいに暴れてくれた。
このスーパーキッズ達と過ごす時間は貴重で、激務に挫けそうになるときに支えてくれた。彼らがいる間は、自分からは絶対辞めない。そう心に誓っていた。

転勤命令は天の声、逆らう行動は一切しなかった。残念でならなかったが、顔には出さなかった。
泣いてくれる子もいて、後ろ髪を引れたが、気持ちを切り替え新天地に向かった。
トレーニングは趣味であり。最終的には40年以上続いた。それでも命令がなければ、自らは手を上げなかったかもしれない ということは添えておきたい。

キーワード:廃用性萎縮

つづく

2019年9月18日水曜日

♫ 何のために生まれて

昨年暮に出した近況メールに返信が届いた。
かつての同僚からだ。「お疲れ様」と労いの言葉が並んでいたが、
末尾のフレーズに目が止まった。
「最近生きる目的や理由を考えているけれど、未だに答えが見つからない」と。

このメールをみて、遠い昔のシーンが頭をよぎった。

20代の頃、2年ほど仙台で勤務していた。休みを利用して東京の実家に帰った時のこと。
トイレに入ったら、「えー?」と声を出したくなるような絵が飾ってあったからだ。
それは中年夫婦の住まいにはあまりにも不釣り合いなアンパンマンの絵。
「何あれ、どうしたの?」と私。

理由がわかった。
雑誌の企画で作者の やなせたかし氏と対談し、プレゼントされたものだった。当時、天然酵母パンづくりの普及に精魂を注いでいた母に「正義のパン」をテーマに声がかかったという。
やなせ氏を熱く語る母の姿を鮮明に憶えている。しかし、今考えると、あれほど人の好き嫌いが激しかった母がナゼ熱くなったのかと思う。きっと、よほどの魅力を感じたのだろう。


アンパンマンにはあまり興味がなかったが、何年も経ったある日、娘達が夢中でみている
アニメから響いてくるそのテーマソングが耳に飛び込んできた。
子どものアニソンにこの歌詞?

♬ 何のために生まれて、何をして生きるのか 答えられないなんて、そんなのはいやだ ♬

子ども番組には相応しくない歌詞と指摘する制作側と対立。
その経緯が,新聞で紹介されたことがあるが、どうしても自分の哲学を込めたいという
 やなせ氏の思いが通ったという。

シンプルな言葉は伝わりやすい。

生きる目的?

それを考え続けるのが人生、と語った人もいるが、考えても簡単に答えは出ない。
重いテーマだが、正面から受け止めなければならない。

歌詞のキーフレーズは、

 「今を生きる」
 「生きるよろこび」
 「何が君のしあわせ?」

だろうか。

心を揺らす詩は続く

♬ 時は早くすぎる   光る星は消える   だから君は行くんだ ほほえんで ♬   と。

やなせ氏を熱く語る母の話を聞き流していた私は、悲しいかな、その内容を何も憶えていない。
もし存命であれば、どこに共感したのか、今度こそ耳をそばだて、その時のことを聴きたい。
心からそう思う。