2019年11月26日火曜日

原理の狭間で 那須物語 アナザーストーリー 魚住廣信プロフェッサーと私


1022日から25日まで34日の二人旅をした。目的地は御用邸を要するロイヤルリゾート地 那須。そしてターゲットはホテルエピナール那須の総料理長でグループホテルの統括総料理長でもある菅井慎三さん。
  
 数人のトレーナーや運動指導者に声をかけ。魚住先生の身体調整を見てもらった。中村好男早大教授。那須どうぶつ王国総支配人 鈴木和也さん。栃木プロジェクトプロ 高根沢武一社長という、親しくさせていただいている方にも同席してもらった。なぜなら奇跡の瞬間を見て欲しかったからだ。といっても、魚住先生や私にとっては奇跡ではなく普通のこと。傍からは奇跡に見えるだけ。

 この一部始終を見ていたどうぶつ王国の鈴木総支配人から、姫川明輝さんという漫画家さんが、やはり首を痛めて苦しんでいるので、みて欲しいとオファーがあり、翌日どうぶつ王国に来るということでお会いすることになった。東京の仕事はすべてキャンセルし、このSOSを優先させた。
前半が私、後半が魚住先生という役割でのぞみ、完璧にミッションをクリアした。


魚住廣信プロフェッサーとは20年来のお付き合いをしている。当時の肩書きは、兵庫大学助教授、NSCA理事、アスレティックトレーナー、ストレングスコーチ、陸上、野球、バレーの技術指導者、三笠宮寛仁親王殿下のパーソナルトレーナー、元阪神タイガースコンディショニングディレクター等々書ききれない程である。PNFを初めて日本に紹介した人、クライオセラピーを日本に初めて紹介した人。事実上NSCAジャパンをつくった人でもあり、寛仁親王殿下が最高顧問であったのは魚住先生とも関係があったからであり、こういうことを知る人も少なくなっているのだろう。

また、体育の世界では歴史に残るロシア体育アカデミーのマトヴェーエフ博士がアジアで唯一認めたのが魚住先生であり、マトヴェーエフ研究で名誉教育学博士をマトヴェーエフ博士自身から受けている。これはとんでもないエポックメイクである。

とにかく常人ではない、未だに進化を続けている人でとどまることを知らない。しかし多くのトレーナーは、そのアップデートされた技術ばかりを学ぼうとしているように見える。気持ちはわかるが、学ぶべきは根底に有る思想や哲学であり、その考え方だ。how to ばかりを学んでいては一生かかっても終わらない。基本をしっかり抑えたら、守破離の破に向かい、理を目指して進むべきであろう。

酒を飲むと魚住先生はいつもそれを嘆いている。自分で考えて実行し試行錯誤しながらも自らの方法論を確立すべきである。こんなことを書いても神の手から直接how toを学ぼうとする人は後を絶たないのだろう。

木を見て森を見ず。結果は正しい。と言っているのだから結果を生む実践をすればいいのだ。結果は正しいと言っているのだから。

己こそ己の寄るべ、己を置きて誰に寄るべぞ、よき整えし己こそ.まこと得がたき寄るべなり。

自分こそを拠り所にすべきと仏も教えている。

 この方を上回るトレーナーは存在しない。そう確信して第一回の勉強会に参加したことが始まりとなった。しかし、20年の中で技術を学んだのは最初の数年であり、あとは技術をほとんど学んでいない。しかし、根底の思想はよく理解しているつもりだ。当然まだ及ぶものではないが、結果は出るようになっている。
 それは守から始まり、破 離へと進んでいるからなのかも知れない。技術の学びは少ないが、それ以上に大きなことを学んでいる自負が有る。


2019年11月21日木曜日

原理の狭間で 那須物語2 ホテルエピナール那須 菅井慎三総料理長


1022日から25日まで34日の二人旅をした。目的地は御用邸を要するロイヤルリゾート地 那須。そしてターゲットはホテルエピナール那須の総料理長でグループホテルの統括総料理長でもある菅井慎三さん。

 
菅井さんと初めて会ったのは確か20095月だったろうか。菅井さんはボードメンバーであり、一調理人ではない。和の調理人としてその衣装に身を包み、立ち姿も決まっていた。だがなぜか、足元を見ると地下足袋を履いている。

理由を聞くと、調理場も調理人の衣服も美しさを保たなければいけない。また、包丁は決して落としてはならないもの。これを絶対に守る気構えが地下足袋だという。

優しい顔をしていたがサムライの目をしていて惹き込まれた。そんな菅井さんが首を痛め酷い状態であることを耳にした。調理人はアライメントが崩れやすい仕事。

案の定、首を痛め手術し軽快するが、腕がしびれる状況が再発。頼った先が「いい整体師」と聞いたその人。うつぶせの状態で肩を踏まれ、足もしびれ生活に支障が出ているというではないか。これは、ほっとけない。
直ぐに、魚住先生に連絡ししたところ、那須行を決めてくれた。これが、那須への二人旅のきっかけとなった。

数人のトレーナーや運動指導者に声をかけ。魚住先生が身体調整をしている現場を見てもらった。中村好男 早大教授。那須どうぶつ王国総支配人 鈴木和也さん。栃木プロジェクトプロ 高根沢武一社長という、親しくさせていただいている方にも同席してもらった。

なぜなら奇跡の瞬間を見て欲しかったからだ。といっても、魚住先生や私にとっては必ずしも、奇跡ではなく 普通のことというべきだろうか。傍からは、奇跡のように見えるだけかも知れない。

私には結果は見えていたので、時々その場を離れたり皆の様子を観察していた。結果は予想通りうまくいった。そして菅井さん自身も驚かれていた。

身体調整とは生来のボディバランス(自然体)を取り戻すように、調整し直すこと。治すではなく、元に戻すことである。

そして大切なことは、整った、その身体バランスを継続することにある。

このサポートは私が担当することにした。


2019年11月12日火曜日

中年肥えやすく、記憶保ちがたし


「身体は適度に使えば強化され、使わなければ脆弱化する」というトレーニングの原則があります。加齢に伴い体力が低下していくことは万人が認めることですが、虚弱高齢者が存在する一方で、若者も真似できないほどの体力・気力を保持する高齢者が存在することも事実です。
26歳の夏
現在エベレスト登頂に挑戦中の三浦雄一郎氏は75歳。96歳の現役医師、日野原重明氏の活躍も広く知られています。
 加齢に伴い活動量が減少すると、負荷の小さな環境に身体が適応することで体力が低下していきます。活動体力が低下することでますます不活発になり、虚弱化を進行させるという側面を見逃すことはできません。

頭と身体を上手に刺激し続け、生きがいを探し、人生を楽しむという姿勢を持ち続けている人は、老いてますます元気ということなのでしょう。

昨年11月、日本認知症学会と東京都老人総合研究所主催の「認知症はここまで治せる!防げる!」という公開講座に参加しました。関心の高さを表すように一階席も二階席も満員。
「中年肥えやすく、記憶保ちがたし」というフレーズで、場内の笑いを誘ったのが群馬大医学部の山口春保教授。肉より魚と野菜を食べ、赤ワインを少量飲んで、人と楽しく交わり、大いに笑って、週に2回は運動で汗をかき、短時間の昼寝をし、前向きに生きることが脳老化を防ぐ秘訣とまとめました。

2回の運動は、「楽しくない」とか「辛い運動」ではダメで、「楽しく行なわなければ効果がない」というマウスの実験結果をベースにした話には説得力がありました。
ガンバリズムを発揮している健康運動の実践者は耳を傾ける必要がありそうです。

                                  2008.5.8記


2019年11月7日木曜日

カラダづくりって、一体何だろう?  原理の狭間で 


40年間体を鍛えてきた。

筋トレ  ベンチ120kg スクワット150kg
大学体育会体操部から少林寺拳法(三段 )
ランニングでは(日野走友会)に所属。
水泳では 関東マスターズ31+で新記録優勝などの歴。

2015に入院手術 前後2ヶ月もトレーニングを休んだのは人生初だった。その後3年間、
心身共に疲弊し療養生活を強いられた。
だが、 この3年間は苦しみもあったが、実は2年半くらい、は楽しみを見つけて
過ごしていた。考え事をするには絶好の機会で、人生設計を再考するには最高の時間
だったかもしれない。
これまで長い間、原理原則に従って、トレーニングを続けてきた。
それなりに体型は変化し、現在進行形で鍛えているという
セルフイメージは心地良いものだったし、それが自信にも
つながっていた。

同時に無理もしていた。つり輪で痛めた肘を治さず、
トレーニングに入っていったことにも無理があった。背中を痛めた
こともある。これはベンチプレスで見てもわからないくらいの
微小な回旋動作が癖になっていたこと関係している。
漸進性過負荷の原理に従い進めることは正しいが、年齢の壁もあり
無理を強いれば怪我につながる。廃用性萎縮を恐れ、とにかく
ノルマをこなしていった。その結果は満身創痍だった。
ランニングクラブは膝痛で辞めた。

しかし、3年間のトレーニング休止の結果は酷いものだった。体型の変化はもちろんのこと、
筋力、持久力、柔軟性などの体力要素がすべて低下。そして何よりも、気力が低下し行動力が
著しく鈍った。これを、どのように回復させるかは闇の中で、その方法論簡単には見つける
ことができなかった。

悶々とする中、今年4月ペンの虫が動き始めた。もともと書くことは趣味。共著1冊、単著3冊、
共同執筆2冊、その間に12年間,一部上場 日機装㈱の社内報で健康コラム担当、クラブパートナー
にナレッジノートを6年連載、介護事業者の8割読むというお化け雑誌「月間DAY」に 身体認知
による 動きのバランス回復法 巻頭12ページ執筆などを担当。

学生時代朝日新聞のデスクだった父から「お前は俺より文書が
上手い」と言われたのがきっかけで 書き始めた。そして本を
読みまくった。 純文学、 エッセイ、SF、推理小説、サスペンス、
詩、短歌などを雜読。前職では社内報巻頭記事、会報の編集と記事
執筆、役員のGライター、外部へのインフォメーションニュース
レター執筆編集、指導マニュアル、運動生理学ノートなど、ここでも
よく書いた。

ところで、母親は6冊の著書を残した。どれも売れた競合がなく
独壇場だったから。版を重ね数10版も珍しくなっかった。
一主婦であるにも関わらず、よく頑張ったと思うが、
実は母の本は読んだことがない 。そもそもその中身には興味がない。
遺物としてはいいが、そもそもコンテンツに興味がないのだ。やはり自分の家族が興味を持って
読んでくれるものを書きたい。この気持ちが、ブログ再スタートのきっかけにもなった。


そしてこのブログを遺書のように書こうと決めた。2019年4月緩やかに書き始め、
8月の「イノベーション」からスイッチが入った。遺書ならば娘達も興味深く読んでくれる
に違いない。これが正直なところであった。母は死んで著作を遺したが、PCのない時代に
活動したのにも関わらず、母の名前を検索すると当時の母の活動の様子を窺い知ることが
出来た。これには夢中になった。亡くなった当時はネット情報を貪り読んだ。
生き様を残すこと。遺族にとって、これほど面白いものはない。

別に、今のところ死ぬ予定はない。しかし 誰もが死ぬという現実がある一方で、
多くの人は永遠の命を持っているように生きているように思えてならない。私は、
78歳が最期と取り敢えず決めた。これは母の命日であり、私の誕生日でもある。

私は未だに父母の誕生日さえ知らない。けれど母の命日は忘れられない。
私の誕生日に逝ったこと。ここにメッセージ性を強く感じざるを得ない。
その他にも色々あるのだが、ともかく78歳が最期の年と決めた。

前倒しもあれば延長もあるかもしれない。だけどそれはどうでもいいこと。
カウントダウンしながら生きることに意味がある。あと3日しか生きられなかったら
1日目は何をする?、2日目は?、最後の言葉は?と畳み掛けると多くの人は
充実した3日間を過ごしたいと願っていることがわかる。

なのになぜ、永遠の命があるように生きているのだろうか。それではNHKの
チコちゃんも怒るかもしれない。人は偶然に生まれ、必然として死ぬのである。

カウントダウンの人生観に切り替えると時間が愛おしくなる。日野原先生は命とは
時間のことと言ったが、全ての命が愛おしくなるのだ。すると生き方が変わる。
間違いなく変わると思う。これが今の生き方である。

生も死も特別なことではなく、あくまでも日常のことである。地球の年齢を
考えれば、人の人生など一瞬のイベントでしかない。執着から離れ、快
(自身の快と多くの人の快)を求めて、自然に生きたいと思う。

そんなことを考えながら、基本的にもう筋トレは行わないと決めた。
痛みなどをカラダが求めることはない。カラダがその運動をやりたくないと
言ったらその言い分を聞く。体の声を聞きながらそれに従い心身をコントロールする。

具体的には、もう一度好きだった武術に戻ろうと思う。
その身体操法は奥が深く、シニアに教えれば、膝痛、
腰痛をもコントロールができると思っている。長年取り
組んできた筋バランスアプローチも活用しながら
究極の自然体、そして、動ける体づくりを目指していく。

これは、私が目指す自身のリハビリであり、そのノウハウを
社会に還元することで物語は完結する。

原理の狭間(げんりのはざまで)というタイトルも、
遺書のようなスタイルも一つの考えから導いたもの。

余談だが、物語の進め方やストーリーは、宮崎駿と鈴木敏文プロデユーサー
のコンテンツ作り〈例えば10分のコンテンツを作り、次の展開を考え結論が
見えないまま進め、最後の最後でとなりのトトロのような作品が完成する)と
NHK大河ドラマ イダテンのように時間空間が激しく交錯するストーリー
展開も参照した。

2019年11月3日日曜日

原理の狭間で 那須物語1 *4ホテルエピナール那須 菅井慎三総料理長


2019年10月22日那須を目指し、高幡不動を発った。私の車を運転してくれたのは銀座でパーソナルジム経営の内藤隆、同乗者は元早大箱根駅伝トレーナーでカラダストレッチひばりヶ丘店長 稲垣翔太朗、そして*1「マリヤの風」の山崎りえ さん。りえさんは残したマリヤが気になっていて、大雨の様子を気にかけていた。私は今回も、直感で無事を確信していたがりえさんにとっては命より大事なマリヤを残したのだから、心配なのは当然だった。
このりえさんだけは、那須訪問の目的が違っていた。*2那須どうぶつ王国に行きたい気持ちで、胸を膨らませていた。
ホテルエピナール那須のフロントで、待っていたのは中村美江子さん(中村教授夫人)、乗馬が趣味の美江子さんとりえさんは初対面だが、一瞬で深い仲になったように見えた。りえさんの周りに現れる人は皆運命の人らしい。
エピの2階のレストランで那須の内弁当を堪能。5人で舌鼓をうった。異口同音で旨いと合唱。
早く行きたいと気がせいているりえさんを見て、どうぶつ王国へ向かうことにした。
到着。
受付で 「矢野です」。
どうぞ お進みください。
王国の入口で、
「矢野です」。
お話お聞きしています。
入口を抜け、事務所に案内される。
一番奥の部屋へ。
総支配人鈴木さん(スペクタクル鈴木)は他で用をしているという。
皆は立ったままそれぞれ部屋の写真を眺めた。
一枚の写真に目が止まった。
大勢の中で、満面笑顔の鈴木さんがいた。背景も美しい。
左に目を動かすと、固まってしまった。
天皇陛下だ。
皇后陛下も笑っている。
皇太子時代から,那須を愛するご一家をアテンドしてきたのはスペクタクル鈴木さん。
鈴木さんは、よく言っていた。
皇太子さまには独特のオーラがある。

どんな?

日本が国民が平和であってほしいと心から願っていることが、オーラとして見えると。
鈴木さんはそういう人。
青森県出身だが、那須で天空の大地に出会い、瞬間で、この地に生きると決めた人。この人も奇跡を呼ぶ人。

のび太に少しだけ似てるが、知的で愛情が深い。
ハートで行動する知行合一の人。行動力は半端ない。
毎年7月 那須で行われる自転車のライディングイベント 
那須ロングライド 全国から愛好者が集まり、あっという間に
ソルドアウト。
そして、設立されたのが那須ブラーゼンというプロライダーチーム。会社運営は苦労の連続だったが 栃木プロジェクトプロの*6高根沢武一さん、鈴木さん達が頑張り、困難をクリア。そしてそのドラマが、本当のドラマになった。
NHK栃木 瀬戸康史くんを主役においたドラマが完成。NHKBSプレミアムで放送された。再放送を含めると4-5回か。空中撮影は高根沢さんのドローン。
こんなことがあっという間に起こった。ここに至る経緯は詳しくは知らない。鈴木さんが動いたなと直感した。これも奇跡と感じた。
鈴木さんが現れた。久しぶりだ。
そして、王国を自ら案内してくれた。

喜んだのはりえさん。
ギャーギャーと五月蝿く、鈴木さんも爆笑。
りえさん、はしゃぎすぎ。
時間がなく、一部のみの見学だったが、
ハシビロコウとカワウソの可愛さに悲鳴を上げていた。
ホテルエピナール那須
鈴木さんにお礼を行って、エピに向かった。
そこには今回の目的、*3菅井総料理長をサポートするミッションが待っている。
待ってろよ、菅井さん!

(つづく)





*1マリアの風 https://www.mariyanokaze.com/

2019年10月2日水曜日

サイドストーリー   サザエさんと父

ある日、父が中学生の私に、朝刊に連載されていたサザエさんの漫画を示しながら、「この4コマの中に間違いがあるが、わかるか」と訊いてきた。

考えるも分からずギブアップ。

答えは鏡に映ったドアノブが左右逆に描かれてていること。
そのミスを指摘する読者からのクレームを受け、部内がザワついたらしい。

朝日新聞で校閲記者(のちデスク)だった父は、寡黙で温厚な人だった。そして時々新聞社ネタを私に放ってきた。ここでは紹介できないものもあるが、面白い話が多く、周りを取り巻く猛者たちのエピソードも痛快だった。(筑紫哲也もかつての部下)

ある日、出勤すると見慣れない掃除のおじさんがいた。父は丁寧な言葉でやり取りしたが、一人の同僚は、相当粗雑な対応をしたそうだ。あとで、その人が、着任したばかりの広岡社長だったことが分かり同僚が青ざめたという悲劇。その微に入り細に入りの説明が可笑しくて笑った。

連載小説で、松本清張は酷い悪筆で苦労したこと。
五木寛之の連載小説「凍河」では、主人公の医者が乗ってきていないはずの愛車に乗って帰るというストーリーミスを見つけ、慌てて本人に連絡し間に合わせたこと。
その原稿は捨てたと聞かされ「勿体ない、自分が欲しかった」と訴えると「そんなもんどうするんだ!」と笑いながら返された。「売れるだろうに」と思った私は言葉を飲み込んだ。欲のない天上人のような父とは成立しない会話だと分かっていたからだ
医者だった厳格な父親のもとで育ったが、誰にもやさしい人だった。
軍隊でも部下に手をあげたことはないと言う。軍隊経験のある人にそれを伝えると「あり得ないこと」と一蹴されたが、あり得ると思っている。

高校生の時、父が勤める有楽町の東京本社(当時は今のマリオンの所にあった)
を訪ねたことがある。受付で声をかけると、スリムで端正な顔立ちの父が、白いワイシャツの腕をまくり、仕事の空気感のまま現れ、思わずハッとした。あんな顔も見たことがない。階段を颯爽と降りてくるその様は。まるで映画のシーンのように光を放ち、とても眩しかったことを覚えている。
来月は、そんな父の6度目の命日。享年93歳。

写真:西部本社時代、門司の自宅でくつろぐ父。なぜか、少し物憂げな表情にも見える。

2019年9月30日月曜日

原理の狭間で 3


コーチ時代からスイマガとトレーニングジャーナルを併読した。トレーニング系の雑誌は学生時代から毎月、細部に至るまで目を通した。その習慣も数十年続き、自然と知識は膨れていった。トレーニングを実践しながら専門書も貪るように読んだ。

中学2年サンダルばきで
自己流の車輪
思えば専門書らしきものを読み始めたのは小学生の時。好きだった水泳と体操の本は何度も何度も繰り返し読んだ。体操競技は特に字が難しく苦労したが、お陰で難しい字が読めるようになった。小学6年の時、本を参考にしながら蹴上がり(鉄棒)を覚え、バッタに難があったが、本で4泳法を覚えた。スイミングクラブなどは、存在しなかった時代である。水泳競技も理論をマスターしたつもりになり、プールで実践を重ねた。勿論コーチはいない独学。それでも何とかカッコつけて泳げるようになった。中学は指導者がいない体操部に入ったが、水泳大会では水泳部とは互角に泳いだ。

大学2年でトレーニングを始め、3年の時、日本で唯一のトレーニング指導資格を取得。1週間研修が義務付けられていたが、実技が充実していた。座学も東京五輪でトレーニングドクターを務めた小野三嗣先生をはじめ一流の講師陣が揃っていた。小野先生の講義は面白かった。標準体重というものがあるが、実際に、自分の体重を様々に変えてみて試したというのだ。そして、最も健康的であったのは小太りだったと結論づけた。自らを被験者にして知り得た事実を根拠に、医師であり、医学研究者の立場から、標準体重の考え方に対して、正面から異論を唱えた。新鮮な話だった。そして、これが研究者魂なのだろうと感銘を受けた。
実技は第一人者である窪田登 早大教授が中心で進められた。ローマ五輪 ウェイトリフティングライトヘビー級で7位入賞したこの人は、人間離れしていた。既に先生の多くの著書や雑誌を読んで関連知識を吸収していた。時々講習で見せてくれたマッスルコントロールは凄かった。三角筋(肩の筋肉)をまるで生き物のように自由に動かすのだ。これには驚いた。古い筋トレ愛好者間では有名だった、片手スナッチで、(60kgのバーベルをヒョイと頭上に挙げる)得意技も見せてくれた。

余談になるが、早稲田大学は後に、人間科学部を新設することになる。この時に、

東大から招いたのが、中村好男先生である。窪田先生の眼力には敬服するが、さらに、中村先生が助手を務めた研究室にいらしたのが、水泳界では誰もが知る、宮下充正 東大名誉教授と同期の永田晟教授であった。永田先生とは、1993年、流水マシンのプログラム作りを二人で担当したご縁で、アクアスポーツという本を共著出版することになる。永田先生から突然電話が入り、原稿依頼を受けたのだが、その締切日が早かった。書く時間を捻出するのが困難なのだ。当時、会社で進めていた台湾の1号店への出張(約2ヶ月間)が目前に控えていたからだ。逡巡したが、そこで書くしかない。そう判断し、執筆了解を永田先生に伝えた。あれは、出張中に台北で書いた本なのである。窪田先生の声掛けがなければ、中村先生との御縁もなかったのだ。そう思うと縁の不思議に、何か見えない大きな力が働いているような気がしてならない。

水泳コーチ時代もトレーニングは続けた。休みは週一回。5:30から朝練が始まり、遅い時は深夜になることも多く。外食して家に帰るのは午前1:00。起床は午前5:00という生活が2年続いた。睡眠時間は4時間。朝練がないのは9月だけ。年11ヶ月がこの生活だった。
慢性睡眠不足で、大事故になりそうなことがあった。帰宅すると先ず風呂を沸かすのだが、目を閉じれば即入眠となる当時のこと。(私たちはそれを気絶と呼んでいた)
その日はガスを付けたまま寝てしまった。気づいたのは朝。新聞配達人や近所の人が激しくドアを叩く音で目が覚めた。

しまった!

すぐに飛び起き浴室へ向かうが、隣の部屋はサウナ状態。浴室のドアを開けたが熱くて入れなかった。それでも強引に中へ。風呂蓋は沸騰した湯でグニャグニャに変形。風呂釜はガタガタと音を立て踊っていた。タップリだったお湯は、かろうじて循環口に触れる程度。慌てて火を消し事なきを得た。風呂の換気扇からは、大量の煙のような蒸気が出ていたそうだ。危うく死ぬところだった。おまけに、こういうことが2回もあった。

習慣とは恐ろしい。こんな過酷な生活でも、週一で筋トレを続けたのだから。
1回の休日は昼まで爆睡。食事休憩をタップリとって、夕方からジムへ。こうした生活を2年続けた。ここまでの経験を経て学んだことは、週一でもOKということ


5番目の任務地は赤羽。フィットネス1号店。スイミングも併設されており、それも合わせた責任者となった。フィットネスに関しては、新たに学ぶ必要がないくらい、知識は既に頭の中に準備されていた。いや、そう思っていた。


キーワード:継続性、運動頻度
 
つづく


*「アクアスポーツ」1993 西村書店 は当時のペンネーム 矢野哲也で執筆


原理の狭間で 2

少し時間を戻そう。
初めてスイミングスクール所長として勤務したのは仙台。オープンしたばかりのスクールだった。
所長業、東北での生活、いずれも初めてで、毎日が新鮮だった。子ども達が喋るこの地域の方言「だっちゃ」は可愛かった。何でも言葉の最後に「ちゃ」をつける。「そうだっちゃー」とか。

五輪でも活躍した千葉すずさんが入会してきたのは、4歳の時だったと思う。彼女にとっては運命の水泳との出会いである。センスが良く毎月進級するので、4ヶ月で幼児の最上級クラスになった。そんな生徒はいないので、当然、マンツーマン指導になった。
この時コーチとして担当した。4歳の女の子が1時間も、カラダのゴツい、男のコーチと一対一で過ごすというのは、大変だったかも知れない。レッスンが終わると、母上が受付にきて、私を呼び「すず 大丈夫なんでしょうか?』と心配顔で、聞いてきた。
「全く心配ありません」とはっきり答えると、安心されたのか、穏やかな顔になり。しばらく、そこで歓談した。ショートカットで背が高く、いかにもスポーティな方だった。これだけ、時が経っているのに詳細な内容まで憶えている。一昨日の食事内容は忘れるのに。不思議だ!

仙台時代 上から2列目の右端が私
週一トレーニングが始まったのは、この仙台からだ。夕方からジムへ行き、夜は武道館で汗を流すという生活だった。酒もタバコもやらないし、お前は何が楽しくて生きてるんだ?などとよく言われたが、何故そう言われるのか不思議でならなかった。楽しくて仕方ないのだから。

話しを戻そう。
ある時あることで、生徒の保護者の男性からクレームがあった。受付から呼ばれ、顔を出し話しを伺っていたら、「お前じゃダメだ!責任者をを呼べ」ときた。一瞬、返す言葉を考えた。これしかなかった「私が責任者です」と。戸惑ったようなその顔を覚えているが、その先の記憶がない。当時は5歳くらい若く見られることが多く。こんな若造が責任者なのかと驚かれたのだろう。
27歳の時である。

選手クラスをつくったのも、初めてだった。すずさんが、その選手クラスに入ったのは、私が2年の勤務を終え、相模原へ転勤した後のことである。強豪ひしめく神奈川で、女子自由形全種目で県記録を持つなど、強豪チームとして知られた相模原での話は前回書いた通りである。

つづく

2019年9月29日日曜日

原理の狭間で 1

つい最近、シャツ一枚の私の写真を見た姉から「痩せたね」と一言。その時の体重は67kgほどで、その自覚はなかったが、改めて写真を凝視した。胴体部分も腕も細く貧弱で痩せて見えることに気づいた。
いや、もともと気づいてはいた。原因は廃用性萎縮。筋肉が落ちたからである。もちろん、その自覚はある。
筋トレを止めたのだから。当然、筋肉は落ちる。

19歳のとき、取り組んでいたスポーツと並行して筋トレを始めた。激務の時代は週一トレーニングを余儀なくされたが、それでもベンチプレスでは100kgを楽に上げていた。
因みにベンチのベストは120kg。スクワットのベストはわからないが、いつも150kgが最終セットだった。

その時の体重は65kgで少し細かった。体重の2倍のベンチプレスを目指したが、そこ迄の素質がないことに気づいた。。チンニングバー(鉄棒)にぶらさがれば、懸垂の延長のように、そのまま腰まで体を上げる動作を、楽に10回はできた。もちろん反動は使わない。

しかし、後に、ミスター日本を獲得し、アジアでも優勝したAさん(同じジムで自宅も近かった)を、見ていて、まるで自分とは素質が違うことを、痛いほど知らされた。。
当時Aさんは、パワーリフターで、すごいパフォーマンスを見せていた。スクワットラックでは涼しい顔で100kgのショルダープレス。ベンチは170kgくらいを上げていた。スクワットは200kg超。しかも全て、フルレンジで完璧、キレイなストリクトスタイルである。懸垂は片腕で軽々行い。75kg級の体重でも100m 12秒。ジムの硬い床でバク宙。柔道は有段者で某組織の大会で優勝。卓球も上手い。その上努力家で知的、人間性も素晴らしかった。
少し線が細かった20代。
隠れているが、左にポーズを取る
Aさんがいる 
二人でポーズをとっている写真が手元に数枚あるが、デフィニションもいい。ここで紹介したいと思うが、残念ながら無断掲載はできない。
今では筋トレ愛好者は格段に増え、凄いレーニーも多くなっていると思うが、当時はAさんのような人は極めて稀であった。

話を戻そう。
この業界の仕事は水泳コーチから始まった。そして、会社のフィットネス1号店出店が決まり、出店計画から現場の責任者までを担当することになり、フィットネスが自分の仕事の領域に加わったのである。この時30歳。

    これで自分の時代が来た!
    と心の中で快哉を叫んだ。

誤解ないように説明するが、水泳は大好きである。競泳指導にも、のめり込んでいた。2年ごとの転勤で実績を出すのは容易ではなかったが、それでもJOで、10歳男子の教え子は、日本で初めて50m自由形で30秒を切ったし、JOに出た女子スイマー達も強かった。ただ、JOの10歳以下では、単独種目は50mのみで距離が短く(200m個人メドレーはあったが)、彼女たちの力を発揮するにはレース距離が短すぎた。なので、東スイ招待ではみんな面白いくらいに暴れてくれた。
このスーパーキッズ達と過ごす時間は貴重で、激務に挫けそうになるときに支えてくれた。彼らがいる間は、自分からは絶対辞めない。そう心に誓っていた。

転勤命令は天の声、逆らう行動は一切しなかった。残念でならなかったが、顔には出さなかった。
泣いてくれる子もいて、後ろ髪を引れたが、気持ちを切り替え新天地に向かった。
トレーニングは趣味であり。最終的には40年以上続いた。それでも命令がなければ、自らは手を上げなかったかもしれない ということは添えておきたい。

キーワード:廃用性萎縮

つづく

2019年9月18日水曜日

♫ 何のために生まれて

昨年暮に出した近況メールに返信が届いた。
かつての同僚からだ。「お疲れ様」と労いの言葉が並んでいたが、
末尾のフレーズに目が止まった。
「最近生きる目的や理由を考えているけれど、未だに答えが見つからない」と。

このメールをみて、遠い昔のシーンが頭をよぎった。

20代の頃、2年ほど仙台で勤務していた。休みを利用して東京の実家に帰った時のこと。
トイレに入ったら、「えー?」と声を出したくなるような絵が飾ってあったからだ。
それは中年夫婦の住まいにはあまりにも不釣り合いなアンパンマンの絵。
「何あれ、どうしたの?」と私。

理由がわかった。
雑誌の企画で作者の やなせたかし氏と対談し、プレゼントされたものだった。当時、天然酵母パンづくりの普及に精魂を注いでいた母に「正義のパン」をテーマに声がかかったという。
やなせ氏を熱く語る母の姿を鮮明に憶えている。しかし、今考えると、あれほど人の好き嫌いが激しかった母がナゼ熱くなったのかと思う。きっと、よほどの魅力を感じたのだろう。


アンパンマンにはあまり興味がなかったが、何年も経ったある日、娘達が夢中でみている
アニメから響いてくるそのテーマソングが耳に飛び込んできた。
子どものアニソンにこの歌詞?

♬ 何のために生まれて、何をして生きるのか 答えられないなんて、そんなのはいやだ ♬

子ども番組には相応しくない歌詞と指摘する制作側と対立。
その経緯が,新聞で紹介されたことがあるが、どうしても自分の哲学を込めたいという
 やなせ氏の思いが通ったという。

シンプルな言葉は伝わりやすい。

生きる目的?

それを考え続けるのが人生、と語った人もいるが、考えても簡単に答えは出ない。
重いテーマだが、正面から受け止めなければならない。

歌詞のキーフレーズは、

 「今を生きる」
 「生きるよろこび」
 「何が君のしあわせ?」

だろうか。

心を揺らす詩は続く

♬ 時は早くすぎる   光る星は消える   だから君は行くんだ ほほえんで ♬   と。

やなせ氏を熱く語る母の話を聞き流していた私は、悲しいかな、その内容を何も憶えていない。
もし存命であれば、どこに共感したのか、今度こそ耳をそばだて、その時のことを聴きたい。
心からそう思う。

2019年8月31日土曜日

イノベーション

その時、観衆は妙なものを

目の当たりにしました。

何と一人の選手が、

両手を地面についたのです。


これは、ある日の新聞広告。
インパクトのある秀作だ。

左から二番目の選手だけが、クラウチングスタートの構えをとり、
観衆は、その不思議な格好を奇異の目で眺めている。

舞台は1896年(明治29年)、第一回アテネオリンピック、男子100m
両手をついているのは優勝したトーマス・バーク(米国)。

男子走り高跳び。
開発途中は嘲笑を受けながら、1968年メキシコオリンピックで、
世界初の背面跳びを披露。
優勝したのは、かつて自分の身長さえ超せなかったディック・フォスベリー(米国)。

バタフライが平泳キックだった時代に、ドルフィンキックを考案。
世界記録をつくった競泳の長沢二郎。

常識を覆す発想で、新しい価値を創り出す。
イノベーター達が開発した技術はいずれも、未来の当たり前へとつながっていく。

写真:2018年7月24日 朝日新聞 大日本印刷の広告

2019年4月3日水曜日

万葉の恋歌


新たな元号が決まり、にわかに典拠になったという万葉集のブームが起きているという。

今朝の天人が「二つなき 恋をしすれば常の帯を 三重結ぶべく わが身はなりぬ」という万葉の恋歌を紹介している。すぐに「春は二重に巻いた帯 三重に巻いてもあまる秋」と歌う昭和の大歌手の曲を連想した。

 いずれも身を細らすおもいの激しさを表現するものだが、古今を問わず、そんな情念が歌になる。

 さて、しばらく休んでしまった。
「からだコラムというタイトルに縛られ、書きたいことが書けないこともあったが、しばらくは、「からだ」にこだわり過ぎず、雑記帳のように思ったことを好きなタイミングで書いていこうか?

先に掲げた二つの歌、こんな状況でメンタルフィットネスはどこまで奏功するのだろう?いや、この種の病はどんな方法をもっても癒すことなどできない、「時を超える」ことを除いて。などとタイトルからの脱線防止を意識したフレーズをつい入れたくなる。

ともあれ、時代の節目に足跡をのこしておこう。