少し時間を戻そう。
初めてスイミングスクール所長として勤務したのは仙台。 オープンしたばかりのスクールだった。
所長業、東北での生活、いずれも初めてで、毎日が新鮮だった。 子ども達が喋るこの地域の方言「だっちゃ」は可愛かった。 何でも言葉の最後に「ちゃ」をつける。「そうだっちゃー」とか。
五輪でも活躍した千葉すずさんが入会してきたのは、 4歳の時だったと思う。 彼女にとっては運命の水泳との出会いである。センスが良く毎月進 級するので、4ヶ月で幼児の最上級クラスになった。 そんな生徒はいないので、当然、マンツーマン指導になった。
この時コーチとして担当した。4歳の女の子が1時間も、 カラダのゴツい、男のコーチと一対一で過ごすというのは、 大変だったかも知れない。レッスンが終わると、 母上が受付にきて、私を呼び「すず 大丈夫なんでしょうか?』と心配顔で、聞いてきた。
「全く心配ありません」とはっきり答えると、安心されたのか、 穏やかな顔になり。しばらく、そこで歓談した。 ショートカットで背が高く、いかにもスポーティな方だった。 これだけ、時が経っているのに詳細な内容まで憶えている。 一昨日の食事内容は忘れるのに。不思議だ!
仙台時代 上から2列目の右端が私 |
週一トレーニングが始まったのは、この仙台からだ。 夕方からジムへ行き、夜は武道館で汗を流すという生活だった。 酒もタバコもやらないし、お前は何が楽しくて生きてるんだ? などとよく言われたが、 何故そう言われるのか不思議でならなかった。楽しくて仕方ないのだから。
話しを戻そう。
ある時あることで、生徒の保護者の男性からクレームがあった。 受付から呼ばれ、顔を出し話しを伺っていたら、「 お前じゃダメだ!責任者をを呼べ」ときた。一瞬、 返す言葉を考えた。これしかなかった「私が責任者です」と。 戸惑ったようなその顔を覚えているが、その先の記憶がない。 当時は5歳くらい若く見られることが多く。 こんな若造が責任者なのかと驚かれたのだろう。
27歳の時である。
選手クラスをつくったのも、初めてだった。すずさんが、 その選手クラスに入ったのは、私が2年の勤務を終え、相模原へ転 勤した後のことである。強豪ひしめく神奈川で、 女子自由形全種目で県記録を持つなど、強豪チームとして知られた 相模原での話は前回書いた通りである。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿