2019年9月30日月曜日

原理の狭間で 2

少し時間を戻そう。
初めてスイミングスクール所長として勤務したのは仙台。オープンしたばかりのスクールだった。
所長業、東北での生活、いずれも初めてで、毎日が新鮮だった。子ども達が喋るこの地域の方言「だっちゃ」は可愛かった。何でも言葉の最後に「ちゃ」をつける。「そうだっちゃー」とか。

五輪でも活躍した千葉すずさんが入会してきたのは、4歳の時だったと思う。彼女にとっては運命の水泳との出会いである。センスが良く毎月進級するので、4ヶ月で幼児の最上級クラスになった。そんな生徒はいないので、当然、マンツーマン指導になった。
この時コーチとして担当した。4歳の女の子が1時間も、カラダのゴツい、男のコーチと一対一で過ごすというのは、大変だったかも知れない。レッスンが終わると、母上が受付にきて、私を呼び「すず 大丈夫なんでしょうか?』と心配顔で、聞いてきた。
「全く心配ありません」とはっきり答えると、安心されたのか、穏やかな顔になり。しばらく、そこで歓談した。ショートカットで背が高く、いかにもスポーティな方だった。これだけ、時が経っているのに詳細な内容まで憶えている。一昨日の食事内容は忘れるのに。不思議だ!

仙台時代 上から2列目の右端が私
週一トレーニングが始まったのは、この仙台からだ。夕方からジムへ行き、夜は武道館で汗を流すという生活だった。酒もタバコもやらないし、お前は何が楽しくて生きてるんだ?などとよく言われたが、何故そう言われるのか不思議でならなかった。楽しくて仕方ないのだから。

話しを戻そう。
ある時あることで、生徒の保護者の男性からクレームがあった。受付から呼ばれ、顔を出し話しを伺っていたら、「お前じゃダメだ!責任者をを呼べ」ときた。一瞬、返す言葉を考えた。これしかなかった「私が責任者です」と。戸惑ったようなその顔を覚えているが、その先の記憶がない。当時は5歳くらい若く見られることが多く。こんな若造が責任者なのかと驚かれたのだろう。
27歳の時である。

選手クラスをつくったのも、初めてだった。すずさんが、その選手クラスに入ったのは、私が2年の勤務を終え、相模原へ転勤した後のことである。強豪ひしめく神奈川で、女子自由形全種目で県記録を持つなど、強豪チームとして知られた相模原での話は前回書いた通りである。

つづく

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