コーチ時代からスイマガとトレーニングジャーナルを併読した。トレーニング系の雑誌は学生時代から毎月、細部に至るまで目を通した。その習慣も数十年続き、自然と知識は膨れていった。トレーニングを実践しながら専門書も貪るように読んだ。
中学2年サンダルばきで 自己流の車輪 |
思えば専門書らしきものを読み始めたのは小学生の時。好きだった水泳と体操の本は何度も何度も繰り返し読んだ。体操競技は特に字が難しく苦労したが、お陰で難しい字が読めるようになった。小学6年の時、本を参考にしながら蹴上がり(鉄棒)を覚え、バッタに難があったが、本で4泳法を覚えた。スイミングクラブなどは、存在しなかった時代である。水泳競技も理論をマスターしたつもりになり、プールで実践を重ねた。勿論コーチはいない独学。それでも何とかカッコつけて泳げるようになった。中学は指導者がいない体操部に入ったが、水泳大会では水泳部とは互角に泳いだ。
大学2年でトレーニングを始め、3年の時、日本で唯一のトレーニング指導資格を取得。1週間研修が義務付けられていたが、実技が充実していた。座学も東京五輪でトレーニングドクターを務めた小野三嗣先生をはじめ一流の講師陣が揃っていた。小野先生の講義は面白かった。標準体重というものがあるが、実際に、自分の体重を様々に変えてみて試したというのだ。そして、最も健康的であったのは小太りだったと結論づけた。自らを被験者にして知り得た事実を根拠に、医師であり、医学研究者の立場から、標準体重の考え方に対して、正面から異論を唱えた。新鮮な話だった。そして、これが研究者魂なのだろうと感銘を受けた。
実技は第一人者である窪田登
早大教授が中心で進められた。ローマ五輪
ウェイトリフティングライトヘビー級で7位入賞したこの人は、人間離れしていた。既に先生の多くの著書や雑誌を読んで関連知識を吸収していた。時々講習で見せてくれたマッスルコントロールは凄かった。三角筋(肩の筋肉)をまるで生き物のように自由に動かすのだ。これには驚いた。古い筋トレ愛好者間では有名だった、片手スナッチで、(60kgのバーベルをヒョイと頭上に挙げる)得意技も見せてくれた。
余談になるが、早稲田大学は後に、人間科学部を新設することになる。この時に、
東大から招いたのが、中村好男先生である。窪田先生の眼力には敬服するが、さらに、中村先生が助手を務めた研究室にいらしたのが、水泳界では誰もが知る、宮下充正 東大名誉教授と同期の永田晟教授であった。永田先生とは、1993年、流水マシンのプログラム作りを二人で担当したご縁で、アクアスポーツという本を共著出版することになる。永田先生から突然電話が入り、原稿依頼を受けたのだが、その締切日が早かった。書く時間を捻出するのが困難なのだ。当時、会社で進めていた台湾の1号店への出張(約2ヶ月間)が目前に控えていたからだ。逡巡したが、そこで書くしかない。そう判断し、執筆了解を永田先生に伝えた。あれは、出張中に台北で書いた本なのである。窪田先生の声掛けがなければ、中村先生との御縁もなかったのだ。そう思うと縁の不思議に、何か見えない大きな力が働いているような気がしてならない。
余談になるが、早稲田大学は後に、人間科学部を新設することになる。この時に、
東大から招いたのが、中村好男先生である。窪田先生の眼力には敬服するが、さらに、中村先生が助手を務めた研究室にいらしたのが、水泳界では誰もが知る、宮下充正 東大名誉教授と同期の永田晟教授であった。永田先生とは、1993年、流水マシンのプログラム作りを二人で担当したご縁で、アクアスポーツという本を共著出版することになる。永田先生から突然電話が入り、原稿依頼を受けたのだが、その締切日が早かった。書く時間を捻出するのが困難なのだ。当時、会社で進めていた台湾の1号店への出張(約2ヶ月間)が目前に控えていたからだ。逡巡したが、そこで書くしかない。そう判断し、執筆了解を永田先生に伝えた。あれは、出張中に台北で書いた本なのである。窪田先生の声掛けがなければ、中村先生との御縁もなかったのだ。そう思うと縁の不思議に、何か見えない大きな力が働いているような気がしてならない。
水泳コーチ時代もトレーニングは続けた。休みは週一回。5:30から朝練が始まり、遅い時は深夜になることも多く。外食して家に帰るのは午前1:00。起床は午前5:00という生活が2年続いた。睡眠時間は4時間。朝練がないのは9月だけ。年11ヶ月がこの生活だった。
慢性睡眠不足で、大事故になりそうなことがあった。帰宅すると先ず風呂を沸かすのだが、目を閉じれば即入眠となる当時のこと。(私たちはそれを気絶と呼んでいた)
その日はガスを付けたまま寝てしまった。気づいたのは朝。新聞配達人や近所の人が激しくドアを叩く音で目が覚めた。
しまった!
すぐに飛び起き浴室へ向かうが、隣の部屋はサウナ状態。浴室のドアを開けたが熱くて入れなかった。それでも強引に中へ。風呂蓋は沸騰した湯でグニャグニャに変形。風呂釜はガタガタと音を立て踊っていた。タップリだったお湯は、かろうじて循環口に触れる程度。慌てて火を消し事なきを得た。風呂の換気扇からは、大量の煙のような蒸気が出ていたそうだ。危うく死ぬところだった。おまけに、こういうことが2回もあった。
習慣とは恐ろしい。こんな過酷な生活でも、週一で筋トレを続けたのだから。
週1回の休日は昼まで爆睡。食事休憩をタップリとって、夕方からジムへ。こうした生活を2年続けた。ここまでの経験を経て学んだことは、週一でもOKということ。
キーワード:継続性、運動頻度
5番目の任務地は赤羽。フィットネス1号店。スイミングも併設されており、それも合わせた責任者となった。フィットネスに関しては、新たに学ぶ必要がないくらい、知識は既に頭の中に準備されていた。いや、そう思っていた。
つづく
*「アクアスポーツ」1993 西村書店 は当時のペンネーム 矢野哲也で執筆
矢野先生でもそんなドジをするんですね。大事に至らなくて良かった。小学生で専門書を読むイメージや大車輪をする中学生のイメージは出来るのですが、うっかりドジのイメージはなかったので意外でした(笑)。
返信削除これはドジというより、生理的限界を超えた人間生活に生じた悲劇と呼ぶ方が妥当かもしれませんね。
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